Q:当日は、まず朝はどこに行かれたんですか?
朝はね、警戒警報解除になったのが7時半ぐらいだと思うんですけども。それで私は電車に乗って、電車が、このぐらいまでしか乗ったらいけない。市役所の辺りで、鷹野橋で下りて、ここから歩いて、ちょうど広陵前だったんです、ちょうど広陵高校前(当時は広陵中学前という駅名)というのがあった、今はないかもしれないけど、広陵前で下りて、ここを歩いて、学校へ行っていたんです。学校へ着いて座ったときに、ピカッと光ったんです。だから3.5キロぐらい離れているから、光ったときに、私はとっさに、目と耳をふさいで、机の下へもぐったんです。とっさにもぐったんです。そしたら、みんな、すぐもぐらなかった人たちは、ガラスが全部飛んで来たんです。針のようにね。それでみんな刺さっていました。私はすぐもぐったから、どこもケガをしていなくて、あのときにケガをしていないのが恥ずかしいぐらいだったんです。みんなケガをして、ガラスが刺さって血だらけで、わーわー泣いているのに、私は机の下から、何が起こったのかと思って出てみたら、そういうふうな。みんな血だらけになっている。私ともう1人、タナカさんという人、そのとき私はヤマグチという名字だったんですが、タナカさんという人が1人だけ、その人も元気だったんですよ。その人と一緒に、みんな、わいわい泣きながら、そのうちに、みんな、教室からいなくなったんです。そこが私も、今も分からないんですが、その教室の入口に、昔、教室の戸は大きいですよね。あれが倒れて、足に倒れかかって、起きられない、足が折れたという人がウエノさんという人がいたから、その人を連れて、じゃあお医者さんにとにかく行こうと、県病院へ連れていったんです、歩いて。外に出たら、ガラスはみんな、飛んでいましたけど、屋根瓦も、住宅街のなかにあるんですよ、翠町中学(小学校)って。周りの家のガラスは、全部飛んでいましたし、瓦も全部飛んでいました、道路にね。県病院に行くのに、近くになると、だんだん近くに行くにつれて、あっちからも、こっちからもね、真っ黒になって、服もぼろぼろの人が、みんな、こうして、手を前に出して、子どもも大人も、黙って、ぞろぞろ県病院のほうへ向いて行くんです。ここのところへ、汚いぞうきんをぶら下げて、みんな、ぞうきんをぶら下げて歩いて、何をぶら下げているんだろうと思ったら、皮膚がずるむけて、こう下がっていたんですね。病院に行って、それが分かったんです。病院に行ったら、もうそういう人ばかりで、ケガをしていなくて、骨が折れたような人は、なかなか診てもらえなくて、やっとのこと、順番が回って診てもらったら、「これは骨が折れているから、しょうがないのう」と、「じっとしておけばいいから」と、板を当てて包帯をしてもらって、そのウエノさんは、学校の近くだったんです、家が。だから、その人の家まで2人で届けて、そうして、「さあ、家に帰らなきゃ、家はどうなったか、家は壊れていなければいいけど」と思って、壊れていないわけはないんですが、いいなと思って、急いで御幸橋のことろまで行ったんですよ。

ここまで行ったらね、ここから先は、行かれないんですね。ここへ行きたい人が、この橋の上へ、みんな座って、焼けるのを待ったんです。もうね、両方が電車の両方がボウボウ燃えていて、その電車道は広いでしょう。そのなかを、一生懸命兵隊さんが片づけているんですよ、通れるように。みんなそこで待っていて、どのくらい待ったか、私は時計を持たなかったから、分からなかったんですが、どのくらい待ったか知らないけど、待っていたら、「通れるようになったど」とか言って、前の人が言うから、建物は交番だったんですね。私は変電所かなんかかと思ったんですが。あそこの横から階段を下りて、川へ下りて、ハンカチを濡らして、あてがって、火のトンネルのなかを、ずっと通ったんです。ここまだ、両側がぼーっと燃えている、熱いようなところをみんな通ったんです、みんなで。そのタナカさんと2人で通って、鷹野橋のほうまで来たときに、火は治まっていたんです。治まっていたけど、今度は市役所の辺りだから、大手町のほうへ向いて、左側を私は通って行ったんです、電車道の左側を通っていたんです。その辺りに、ものすごい人たちがうずくまっているんです、真っ黒になって。もうね、生きているか、死んでいるか分からない。服も着ていないような、とにかく頭も、真っ黒になった人が、ずっといっぱいうずくまっているんです。その人たちのなかから、「お水ちょうだい、お水ちょうだい」と、「日赤へ連れていって」と言うんですね。日赤がその辺にありますでしょう。そう言われても、こんなにたくさんの人を、お水はないし、わーと、本当に生きているか、死んでいるか、分からない。真っ黒の人たちが、いっぱい道端にうずくまっていたんです。わー、ごめんねと、水もないし、日赤もよう連れていってあげられない。私は早く帰りたいんだから、こんな人にかかわっていられないと思って、それを見捨てて走って逃げたんです、友達と一緒に。それがずっと、毎日毎日、追いかけられる夢を見ました。その人たちは、きっと誰も迎えにこなくて、あのまま死んでいかれたと思うんですね。ずっと歩いて、紙屋町まできたんです。紙屋町から見て、こっちへ行ったら広島駅、こっちへ行ったら、私は十日市のほうへ向いていきたいから、そこから片づけていなかったんです、線路が。そこまでは、通れるように片づけてあって、そこから何も片づけていなくて、つまり、爆心地のほうへ向いてですよね。何も片づけていなくて、もう道いっぱい人が死んでいたんです。人も死んでいたし、ものもあって、本当に、人があそこにも、ここにも、みんな死んでいたんです。今、1人、人が死んでいてもびっくりするけど、あんなにいっぱい死んでいたら、もうなんともなくなるんですね。それでね、あ、ここにも死んでいる、ここにも死んでいる、もう人間の心はなくなりますね、ああなったら。
とにかくこの人を踏まないように、またいで、爆心地かどうか知らないけど、ちょうど紙屋町から相生橋の上へ向いて、ちょっとだらだらと坂になっていますよね。だから、相生橋の向こうは分からない、相生橋の上まで行けば、うちの家が分かるから、うちの家はこっちだから、分かるから、あの橋の上まで行けば、うちのほうが焼けていなければいいなと思いながら、一歩一歩すごい時間をかけて歩きました。一歩一歩、歩いて、途中で踏み抜きして、下を向いたら、ここに目玉が飛び出た人の顔があったりして、見ないようにして、靴を脱いでから、くぎを抜いて、履いて、また歩いたんです。やっとのことで相生橋の上へ着いたら、もう360度何もない、見えて、向こうの武田山のほうまで、全部、己斐のほうの山も全部見えて、まあ、もうダメだと思って、そこの欄干が、こっちへ向いて、全部ばたんと倒れていましたね。そこのそばに座り込んで、もう相生橋の上で、しばらく友達と2人、泣いたんです、わーわー。大泣きしたんです。もう相生橋の上のほうも、たくさん人が死んでいました。それでいつまでも泣いていてもしょうがないと、私の避難先が川内村だったんです。だから、ここからまた10キロもないかもしれないけど、私は10キロぐらいかなと思って、10キロといって、いつも話じゃいうんですが、よく考えたら10キロもないですね、川内村まで。そこを10キロも帰らなきゃいけない。しょうがないなと思って、十日市まで歩いていくのに、鷹匠町、こっちは左官町で、こっちは鷹匠町なんです。あのころ大きな水槽があったんです。どの家にも初期消火のためにコンクリートの水槽がどの家にもありました、このぐらいのが。町内に、大きな水槽があったんです。畳2枚か、もっと大きな、それに水がいっぱい入って。そこへ人がいっぱい入って、もう鉛筆立てに鉛筆をびっしり立てたように人が入って死んでいた、真っ黒になって、みんな熱いから入ったんだと思う。防火水槽のなかの、鉛筆立てに鉛筆を立てたように、人が入って死んでいるのを見て、もうほんと、ああ、これはみんな熱いから、われもわれもと入ったんだなと思ったんですね。十日市のほうまでいくのに、あのころ馬車だったでしょう。だから馬車で、馬が死んでいるんです、あっちにも、こっちにも。馬車の馬が。それが、ばたんと倒れて、大きなおなかがパチンと弾けて、中が飛び出て、馬が死んでいるのを見ながら、十日市まで来たときに、中学生が近づいてきたんです。その子、中学生が服はぼろぼろになってなかったんですが、きゃはんを巻いて、地下足袋を履いていた、その地下足袋の足が、地下足袋が破れて足の骨が見えるぐらいケガをしていました。その子が言うには、セイヨウケンの7階にいたけど、気がついたら下に転んでいたというんです。どういうふうに、自分で下りて気絶して転んだのかどうか知らないのですが、気がついたら地面に転がっていたと。自分は山本に帰ると言ったんです。山本というと、こっちの、「山本に帰るから、連れて帰ってくれ」と言ったんです。そのころ、男の子とものを言ったことがないような、男女別、クラス別だったし、男の子と話をしたこともないような、男の子に連れて帰ってと言われて、ドキッとしたんだけど、私もここを通らないと、川内村へ行かれないから、じゃあ、一緒に行こうと言って、友達と一緒にずっと歩いていって、電車道を歩いたら、電車の橋は、木の橋だから落ちていたんです。だから、こっちのつり橋のほうへいって、つり橋のほうからずっと歩いて、横川駅の前の三篠信用組合と今もあるか知らないんですが、三篠信用組合の建物がコンクリだったから、あったんですよ。そこで、救護所になっていた。「とにかくこの足を診てもらおう」と言って、診てもらったら、「これは靴を脱がせたら、もう履けなくなるから、このままだ」と言って、「これはどうしようもないから、赤チンをつけてやる」と、あのころは赤チン、今はないかもしれないけど、赤チンをつけてもらって、靴の上からぐるぐる包帯をして、「これで我慢せいよ」と、軍医さんがやってくださった。それから、友達は大芝というところへ帰るから、別れたんです。私は1人でその子を肩に掛けて歩くんだけど、足が痛いから、歩かないんですね。本当に一歩一歩山本まで、ちょうどまた国道沿いだったんです。真っ暗になって。
それで、山本まで、ちょうどその子の家に、やっとのことで、ここがうちの家だと、大きな家だったんです。なかからお父さんとお母さんが、飛び出してきて、「まあ、よう連れてきてくださった」と、「今日捜しに行ったけど、見つからなかったんだ」と。だから、「よう連れてきてくださった」と、私は「今から川内へ行くから」と言うと、「そんなこと言わないで、あんたも今日はここへ泊まっていきなさい」と、「夜もう遅いから、明日の朝早く行けばいいから、今日は泊まっていきなさい」と言われて、泊めてもらったんです。ご飯もよばれて、その晩、お風呂に入れてもらったんです。そしたら、なんと、そこの家は酪農家で、牛乳風呂へ入ったんです。原爆の夜に生まれて初めて牛乳風呂へ入って、「よう寝んさいよ」と言われて、布団を敷いてもらったんですが、広島の空は夜通し真っ赤に燃えて、うちのお母さんも死んだなと思って、私は妹もいたんですが、妹は学童疎開で、5年生だったから、兄は海軍に応召していて、姉は住吉橋の郵便局、住吉橋のたもと、どこかしら。たもとの郵便局に勤めていたから、家には母しかいなかったんですね。だから、お母さん死んだかもしれないなと思って、一晩中泣いていたけど、そのうちにうとうと眠って、いつの間にか朝になって、「あんた、早く起きなさいと、朝になったからご飯を食べて、早く川内村へ行きなさい」と、「お母さんが来ているかもしれないから」と言われて、ご飯をよばれてね。その子は夜、ずっと泣いていた。「痛いよ、痛いよ」と、寝なかったと思いますよ。それで朝、お礼を言って玄関まで送ってもらったらね、一つ覚えているのは、振り向いて、門のところに、真っ赤なサルスベリが咲いていた。その人の門のところに。うちにもあるんですが、サルスベリを見ると、いつもあの子のことを思い出すんです。お礼を言って、私、川内村へ行ったんです。何年か、次の年ぐらいに用事があって、祇園に行くことがあって、行ってみたら、その子の家に行ってみたんです。そしたら「あなたは生きておられた、よかったですの」と、「うちの子は15日に死にました」と言われた。足だけじゃなくて、たぶん、放射能であれだったと思います。川内村へ朝、行ったんです。
鷹匠町(現・中区本川町、十日市町)のあの辺は、ここの、大きな農家の家があてがわれていてね、そこへ行ったら、大きな大きな家で、上がりがまちがあって、広い土間があって、上がりがまちに、部屋がいっぱいあって、あちこちに人が座っておられたんだけど、母らしい人は来ていなかったんですよね。ああ、やっぱり来ていなかった、生きていないかも知れないと思って、上がりがまちのところへ座り込んで、私が、ああ、と言ったらね。「あら、サヨちゃんじゃないの」と、後ろから声を掛けてくるおばさんが、「まあ、あんた生きとったんね」と言われて、「うちのスミコは」と、私の友達、スミちゃんという友達がいたんですが、その子のお母さんだったんです。「うちのスミコは、帰ってこんのよ、うちの子は、帰ってこんのに、あんたは、なんでそこにおるん?」と言われたんです。でも私は親になって、そのお母さんの気持ちは分かりました。私はそのときに、ありゃ、生きていたらいけなかったのかと思うような気がしたんです。それからそのお母さんは、私のことを、手をつないで、離さなかったんです。その日すぐにトラックが出て、「市内に捜索に行くから、行きたい人はトラックへ乗れ」と言われて、そのお母さんと一緒にトラックに乗って、鷹匠町の焼け跡へ行ったんですよ。行ってね、もう何もないんです。でも、「うちはこの辺だった」と、ここへ座っていたら、スミコが帰ってくるから、私はしっかり手を、その辺はまだくすぶっているようで、まだいっぱい人が死んでいて、すごい臭いんです。人の骨もあるようだし。でも、うちの家はここじゃなくて、スミちゃんの家と私の家は50メートル以上離れたところだったんです。私の家はあっちのほうだから行ってみたいなと思っても、スミちゃんのお母さんが手を離さないから、一日中、そこへ座って夕方まで、「スミコ、スミコ」というお母さんのそばで、私も黙って座って、かんかん照りの日のなかで、一日終わって、夕方またトラックで川内村へ帰ったんです。
9日に朝、姉が訪ねてきたんです。姉が生きていたんです。姉は白いブラウスを着ていたんですけどね、雨に、黒い雨に降られて、真っ黒になっていました。私らのほうは降らなかったんです。西のほうが降ったらしいですね、黒い雨が。姉は橋のたもとから船で古江のほうに局長さんの家の親戚があるので、そこに泊めてもらって、川内村へ来たんです。「今日こそお母さんを捜しに行こうね」と言って、トラックに乗って行ったんです。スミちゃんのお母さんは、スミちゃんのお父さんが来られたから、私は解放されたんです。
それで焼け跡に行って、うちの焼け跡で、「今日こそお母さんを捜そうね」と言って、行ってね焼け跡を掘ったら、本当にうちの茶わんの、見覚えのある茶わんとかが見つかりました。子どもの頭が、ぽっと見つかったんですよね。これは隣の坊やだなと思って、でも母のような人は見つからなかったんですよね。もうお母さんじゃないね、どこかへ逃げたかもしれないからと、川のほうへ行ってみようと、相生橋まで行って、本川橋の下から、下に川にいっぱい人が死んでいるんです。干潮だったから、満潮になると水が海のほとりだから、干満の差が激しくて、干潮になっていたから、川にいっぱい死んでいる。その川に下りて、1人ずつ見て回って、これも違う、よく分からないんです、本当は真っ黒で、でも、服の見覚えで、焼け残っている服の見覚えで、「これも違う、これも違う」と、夕方まで見て、暗くなるから早く行かないと、トラックに置いて帰られるからと言って、焼け跡へ戻ったら、本当に置いて帰られていたんです。焼け跡から、トラックが出たあとだったんです。だから、またここから歩いて帰らないといけない。「私は10キロも歩くのは嫌だ」と言うと、「泣いてどうするんね」と、姉が手を引っ張って、がんがん引っ張って、十日市まできて、電車通りを歩くんです。十日市まで来たとき、ここに収容所があったんです。収容所に畳1枚に1人ずつ寝かされて、上へトタンの屋根がふいてあって、壁の代わりにむしろがぶらさがっていたんです。そこを1人ずつまた、15~16人、寝かされていました。見たけど、母はいなかったんですね。「いなかったね」と言って、ずっと歩いて、横川橋へ来たとき、横川橋は落ちているから、こっちへ行くんですが、この横川橋のところにまた収容所があったんです。広い電車道のこっちを歩いていたら、向こう側にあったんです。「どうせあそこにも、収容所はあるけど、お母さんはおらんよね」とかって、言いながら通っていたら、むしろとむしろのあいだから、母の見覚えのある服が見えたんです。走ってね「あれ、お母さんじゃない?」と行ってみたら、母が寝かされていたんです。だから、トラックに置いていかれたから、見つかったんであって、前の日も寝ていたかもしれないんだけど、見つかって、もうね、「お母さん、生きとったんだね」というと、母も、「おまえたち生きとったんか」と、畳1枚に1人寝かされて、兵隊さんが頭を冷やしたりお水を飲ませたり、そういう面倒をみてくださった。収容所といっても、ただ見ているだけですけどね。寝かされていたんです。
母はどうしたかというと、ピカって光ったときに下敷きになったらしいんです。しばらく気絶していたけど、煙のにおいがしてきて、光が見えて、右手が動いたから、右手だけ動かして、1つずつよけて、抜け出した、はいだしたって。下敷きからはいだして、広瀬橋を渡って、中広に親戚があるんです、うちの。広瀬橋を渡ろうと思ったら、広瀬橋が落ちていたと。渡れないから、川のなかへ入って、熱いから、川のなかへ入っていたら兵隊さんに助けられて、ここへ連れてこられたと言っていました。だから、「よく生きとったね」と、あまりケガをしていなかったんです。この辺をやけどした感じで、目の周りが紫になっていて、この辺をちょっとやけどしていましたが、何しろ、ものすごい熱だったんですね。それで、そこで看病しながら、2人で。次の日にね、私はここもいつも生徒に話をするんですが、次の日に炊き出しが来たんです。炊き出しのおにぎりが、こんなに来たの。あのころ、白いご飯を食べたことがなかったから、炊き出しのおにぎりを見てびっくりして、うわ、白いご飯が、あるところにはあるもんだと思って、見たことがなかったから、いつも配給の少しのお米で、おじやか、大根飯か、そんなものしか食べたことがなかったから、白いご飯がうれしくて、私みんなに1つずつと言われたのに、私は2つももらって食べて、母が食べないと言うから、母の分まで食べて、もううれしくて、「白いご飯が今は当たり前に食べられるけど、あれは当たり前だと思ったらいけんのよ」と子どもによく言うんです。生徒に言うと、いつも感想文をくれるんですが、「白いご飯を大切に食べるようにします」と、そういうので聞いてくれるんです。
そんなことで、11日に汽車が通りだしたというので、姉がおんぶして、横川駅までおんぶして、そこから五日市までいって、五日市で、廿日市まで行って、廿日市で下りて、今度は宮島線に乗って、宮内に母の実家があるんです。そこまで姉がおんぶして、そこに母の実家が海の、宮島線の宮内だから、宮島から3つぐらい手前なんです。海のほとり、土手があって、ほとりじゃないんですけどね、海に近いところだったんです。そこで12、13、14日まで生きていたんですけど。14日に、そのあいだに伯父が、母の兄になる人が、家の人がみんなよくしてくれて、どうやったらやけどの、キュウリを冷やすとか、金をたたいて当てると冷えるとか、わら布団をつくってくれて、体が、あのころはマットレスがないから、体が痛いだろうからと、わら布団をつくって、寝かせたら楽だろうと、確かに母は、「体が楽になった」と喜んでいたんです。昔、わら布団をすると、その人は死ぬという言い伝えがあったから、私はわら布団なんかしてほしくないと思ったけど、母が喜んだから、よかったと思って。それで14日に妹が五日市の奧から4キロぐらい、もっと奧に親戚があって、そこに疎開していたから、電報を打って、14日に来ることになったんです。14日に、早く来ないと、今日はダメかもしれないと、朝から母が言っていたんです。ちょうどお昼ごろに着いたんですね。よかったと、母が喜んで、妹は疎開でずっと一緒にいなかったから、母がかわいそうで、すごい喜んで、2時ぐらいになったとき、みんなを集めて、もうね、お母さんダメかもしれないからと、みんなを枕元に集めて、1人1人に、「おまえは泣き虫だし、すぐはぶてる(ふくれる)から、ああいうのは人の前でよくないから、そういうのはしないように、人に嫌われるようなことはしないように」とか、1人ずつ注意して、それで兄が帰ってきたら、「お兄さんを大事にして、みんなきょうだい仲よくして、人さまに迷惑をかけたらいけない」と、みんなに1人ずつ注意しておばさんと、おじさんたちに、「この子たちのことをお願いします」と、「お願いします、お願いします、お願いします」という声が、だんだん小さくなっていって、母が死んだんです。その日の朝かなんかは、まだ、グラマン戦闘機が来たんです、あんな田舎に。ブンブンと、みんな、防空壕(ごう)へ入ったんですが、私はそこは田舎だから、横穴式のところもあったんです。横穴式のところへみんな防空壕へ逃げたんですが、母が動けないから、私たちは死ぬならお母さんと一緒がいいからと、母の布団のところへ潜っていたんですが、あまりにブンブン言うから、私はちょっと見に行ったんです、軒下から。そしたら、本当に見えたんですよ。ばーっときて、機銃掃射しました。乗っている人が見えました。それぐらい下りて、機銃掃射したんです。慌てて戻ってきて当たりませんでしたけどね。そんな前の日まで、爆撃に来たんですよ。それでその日、結局母が死にました。15日がお葬式だったんですけどね。あのころ、海のほとりに焼き場があったんです。焼き場で、人が焼き場が混んでいて、まきはないし、なかなか順番が大変だったんです。やっとまきが手に入って、焼き場が空いて、私たちがまきを並べて、その上にお棺を置いて、自分で火をつけて、母を焼きました。そんなことでした。
私は被爆者手帳をケガもしていなかったから、40年ぐらい取らなかったんです。平成元年に、それも長い病気したから、姉が、「取っておいたほうがいいよ」と言って、「何か助かることもあるかもしれないから」と、書き方まで調べて、どういうふうにして取ったらいいとか、丁寧に書いてくれてきたから、しょうがなしに都庁へ行って、あれをもらって詳しく書いて出したら、「詳しすぎるから怪しい」と言われたんです。「なんで今まで取らなかったのか」と、「だいいち、その日のうちに、ここを通ったというのはありえないと、ここは1週間人が入れなかったし、ものすごい放射能があったから、今生きているはずがない」と言われたんです。そうなんだと思ってね。「それでも私は通ったんですけど」って言ってね。でも、それを信じてもらえないならしょうがないと思って、そんなことだったんですよ。
Q:これ、写真です。
そうそう、この写真ね。この端、端っこ立っているよね。
Q:これ、専売局からいって・・・向こうが千田町のほうです。
こっちが専売局ですね。専売局も、軍需工場に働いたことがありますよ。高等科のとき専売局で働きました。女学校、第2市女(学校)へ行ってからは日本製鋼所で飛行機の部品をつくっていました、鋳型を。ちょうどその日ね、連休日で休みだったんです、月曜日で。私、もしその日に行っていたら、広島駅辺りで死んでいたかもしれない。被爆に遭っていたかもしれない。やけどをしたかもしれない。すごいね、そうそう。みんな、こうやって座り込んで、私はこっち側に座っていた。向こう側じゃなくて。
Q:専売局側ですか?
そうです。
Q:真ん中ぐらい?
こっちのほうへ座って、これを見るたびに、私は、あそこら辺にいた、私はずっとこっちのほうにおったねと思って。
Q:この人たちはやけどをしているのか、裸なんですよ。
あら、ほんとだ、けっこうぼろぼろですね。気がつかんかったね。自分のことしか考えていないから。
これ電車道でしょう。このずーっと。この辺。これは煙でしょう、この辺。電車がこう通って、ちょっと曲がっておらんですか?
Q:曲がっていきます。
曲がっていきますよね。この辺、この辺が燃えていました。
Q:すごい煙だったわけですか?
すごい、炎でしたよ、それこそ。だから炎のトンネルを通ったんですよ。まだ燃えている。でも、兵隊さんは、よくあれをよく片つけてだねと、みんな、友達と2人で、熱いことはないかねと、確かに熱かったんです。本当に通るのに、よく通ったと思いますよ。でも、この橋の下から、階段を下りて、ハンカチを濡らして、みんなが、こうやって口へ当てて、通った。
炎で、赤い炎で、煙どころじゃない、赤い炎のトンネルでしたよ。通るときも、通れるのかなと思うようなのが、電車道は広いから、両方が燃えていても、通れたんですよね。
Q:橋の上から見た煙はどんな感じでしたか?
橋の上からは、燃えている、向こうが燃えているのしか分からなかったですけどね。
Q:この辺に、こういう人とか裸の人がいるんですよね。こうやって手をぶら下げている。そういう人ですかね、見られた人というのは?
そうですね。ぼろぼろでしたよ。ここがずるっと、汚い茶色のような、汚い汚れたぞうきんをぶら下げているような、みんな、子どもも大人も、みんなこうやって、歩いていました。何をぶら下げているのかと思ったら、半袖なんかを着ているから、焼けたところがずるむけになって、ここから落ちないで下がっていたんですね。
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